「お暇ですか?」

 クリスは、始めは自分が話しかけられているとは気づかなかったようで、しばらくし
てようやくこちらに目を向けた。その瞳はわずかに曇っているようにも見え、どこか違
うところを見ているようにも思えた。

「クリス・ヴェルティン」
「……はい?」
「君に壁の花は似合わない」

 そう言って、すっと彼の胸ポケットに花を差し込んだ。女の子にやると効果はそれな
りにあるが、クリスは困ったように花を眺め、それから尋ねた。

「君は?」
「アーシノ・アルティエーレ」
「そう。それで……僕になにか?」

 特に用事があるわけではない。

「なにかないと話しかけたら駄目か?」
「いや……別に。ただ、用がないのに話しかけられたのは、ここに来て初めてだったから」
「せっかくの親睦会だ。話をしようと思って」
「……そう」

 それから、どこから来たとか、フォルテール科のことなんかを話したが、いっこうに
話は盛り上がらなかった。クリスのフォルテールの音に似た苛立ちを、彼自身にも感じ
始めるようになり――
 ついに、俺は聞いてしまった。

「なあ、お前……なんでここに来たんだ?」
「……誘われたから」
「嫌なら途中で帰れば良かっただろう?」
「人を待っているんだ」
「いったい、誰を?」

 誰が、お前なんかを? そう皮肉を込めたが、彼は気づかずにドアの方を向いただけ
だった。
 それからしばらくしてドアが開き、ひとりの女生徒が入ってきた。アンサンブルの途
中だったが、遠慮無しに思い切りドアを開けたようで、演奏が止まることはなかったが、
何人かがその音に顔を向けていた。
 彼女はこちらに向かって歩いてくると、俺を無視して低く囁いた。

「講義室で待っててって言ったでしょ?」
「だから、書き置きをしたんだけど」

 彼女は手になにか紙をもっていたが、まるで力一杯握ったかのように皺がついていた。
かろうじてチェナーコロという文字だけが読めた。

「クリス、こちらは?」

 性格がきつそうだとは思ったが、一応は美人だ。紹介くらいはしてもらおうと間に割
り込むと、彼女は探るような視線をこちらに向けた。

「ああ、アーシノ。彼女はトルティニタ」

 クリスがそう紹介したが、トルティニタは黙ったままだ。

「はじめまして。アーシノ・アルティエーレだ」
「……どうも」

 クリスにもまして無愛想なやつだ……とその時は思ったが、張りつめたような顔に、
それ以上はなにも言わなかった。

「私たち、急いでいるんです……ごめんなさい」

 トルティニタがクリスの手を取り、来たときと同じように乱暴にドアを開けて外へ出
ようとしたが――

「それ、なに?」

 クリスの胸元の花を見つけ、首を傾げた。
 困ったような笑みを浮かべながら、クリスは戻ってきて俺に尋ねた。

「これ、なに?」
「花だよ」
「どうすればいいの?」
「……さあ? 好きな女にでもやれば?」

 クリスは不思議そうな顔をして、それからドアの前で不機嫌そうな顔をしているトル
ティニタに、その花を渡した。
 一瞬――トルティニタの顔が崩れる。それもほんのわずかな時間のことで、すぐに彼
女は顔を逸らし、そのまま外へと出て行く。
 クリスはその意味に全く気づかなかったようで、小走りにその後についていった。

 二人のやりとりは不思議な感じがしたが、その時はまだ、クリスのこともトルティニ
タのことも何も知らなかった。
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